【山城・伏見 9月8日】
本日、伏見城が奉行衆の総攻撃を受けて陥落し、守将・鳥居元忠は本丸に火を放って自刃した。城下は黒煙に包まれ、門櫓と多聞は炎上。攻囲はここ数日の間、夜を徹して続き、塀際では攻め手のはしごと竹束が幾重にも積み重なった。元忠率いる徳川方の城兵は寡兵ながら、狭間の射撃と火矢、石火矢で押し返し、破れ目には畳盾と土嚢を積んで持ち堪えたが、夜明け前の一斉突入で内曲輪が崩れ、刀槍はついに血止めを失った。
伏見は京と大坂をつなぐ回廊の喉元に当たり、城の存否は諸道の流れを左右する。守備側は「一日を万日の価値に」とばかりに持久を選び、内府衆本隊の集結と西上行軍の時間を買い続けた。城中からは家康への遺書が届けられたと伝わり、城兵の多くも弾薬尽きて討死、あるいは炎中で果てた。城郭の外縁では、撤収に転じた町人が荷車を押し、寺社は避難所の役を担った。
今月六日、総大将格の石田三成が伏見前線に到着し、包囲の諸隊を巡閲。攻城具の再配置と交代制の夜襲、堀際の土橋構築を命じ、火矢と火薬の投射を増やした。同日、毛利輝元・宇喜多秀家と豊臣三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)に三成を加えた「四奉行」は、北陸の脅威に備えるため木下利房に指示を下し、木下勝俊と歩調を合わせて、加賀国小松まで進出した前田利長に対抗すべく北ノ庄へ向かうよう命じた。畿内の攻勢と北陸の牽制を同時に走らせ、東軍の背面を揺さぶる構図である。
しかし伏見に釘付けとなった奉行衆の主力は、城攻めの消耗と兵糧の費えを免れない。城下からの鹵獲は多くとも、失った時間は金銀に換えられない。攻城の苛烈さは奉行衆の威勢を示したが、関東から西へ延びる徳川の糧道は、その間に厚みを増した。江戸と東海道筋では、米・塩・弾薬の積込と伝馬の割当が加速し、諸隊は中山道・東海道に分進している。
京では豊臣政権の威令がいまだ届くが、街の空気は張り詰め、商人は蔵を閉ざして情勢を伺う。大坂からは「次の標的は二条・淀」との声が漏れ、畿内の諸城は守備を固めた。伏見陥落の報は東へも走り、関東では「ここで怯むべからず」との触書が回る。名だたる名城の火が消え、灰の匂いが川風に混じる一方で、戦の天秤はなお揺れ続ける。
城は落ちた。しかし、城がもたらした“猶予”は残った。元忠の首の重みは、まっすぐ西へ向かう大軍の速度に換算される。関ヶ原へ向かう道は、いま一本に束ねられつつある。秋雨の幕の向こう、馬印と幟が東から押し寄せ、畿内の野と峠に、次の会戦の輪郭が浮かび始めた。
— RekisyNews 国内・戦況面 【1600年】