【尾張・清須周辺 9月29日】
本日、清須周辺に集結した内府衆諸将は一斉に前進を開始し、池田輝政の麾下が河田付近で木曽川を強行渡河。鉄砲の一斉射と舟橋の架設で橋頭堡を築くと、米野の野で岐阜城主・織田秀信の軍と衝突してこれを押し返し、竹ヶ鼻城方面へ圧力をかけた。城下筋では渡船場と堤道の要点を次々と占拠し、守備側は小隊の反撃を繰り出すも、畦道と水田に阻まれて戦列が伸び、日暮れには後退の煙が見えた。
この進撃は、ここ数日の布石に支えられている。24日には奉行衆の島津義弘が美濃・垂井へ着陣、25日には本国薩摩へ増援を求める急使を放ち、近江―美濃正面の圧迫を図った。一方、26日には黒田長政らが井伊直政・本多忠勝に対し、「家康出馬を待たず木曽川を越え犬山方面へ進出すべし」との方針を具申。これが承認され、内府衆は先鋒主導で河川線の主導権奪取に動いた。今日の河田渡河、米野合戦、竹ヶ鼻口での攻勢は、その延長線上にある。
堤上では長槍が押し合い、鉄砲は湿り気を避けて交代射ち。内府衆は小荷駄を水際まで寄せ、弾薬・柵材を絶えず送り込む一方、守る秀信方は岐阜に通じる連絡路の確保に腐心した。戦果確認はなお続くが、川筋の渡守と舟手が東軍の管理下に入ったことで、濃尾平野の東西の通いは大きく揺らいだ。
清須—犬山—木曽川の線が割れれば、岐阜城の背面と補給に影が差す。家康本隊の合流前に前衛が要地を固めるという作戦は奏功しつつあり、奉行衆は垂井—関ヶ原—大垣の線での再編と、伊勢・近江口との呼応を急ぐほかない。秋風の堤に幟が鳴り、濁流の向こうで合図の太鼓が短く響く。前線の針は、いま確かに東へ振れている。
— RekisyNews 国内・戦況面 【1600年】