1600年 豊臣政権内部対立 石田三成VS徳川家康– category –

こちらは1600年の日本。戦国時代の日本を統一関白の座に上り詰めた「豊臣秀吉」が死去してから2年。秀吉の後継者「秀頼」はまだ幼く、豊臣政権内部での対立が表面化している。秀頼の傅役と位置づけられた前田利家の死後その対立はますます激化している。内府・徳川家康は、在京統制や縁組の取りまとめ、領地裁断への関与を強めて実権を掌握。これに対し、奉行方の中心にいた石田三成らは「秀頼の政道を外さぬこと(遺詔遵守)」を掲げ、内府の専断を牽制する構えを崩さなかった。対立は一層混迷の様子を見せている。

7月29日 かねてより対立をしていた会津上杉景勝に対して徳川家康は豊臣への謀反の疑い会津征伐遠征に出立した。その一方、大坂では、奉行方が「秀頼の名」を旗として再結集。毛利輝元を政務の総裁格にいただき、連絡・兵糧・妻子の集置など城下の体制を整え始めた。まさに対立はここに表面化しようとしている

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