三成、豊国社へ参詣 上方衆、伏見へ進発—城内は籠城体制を固める

慶長五年七月十八日(1600年8月26日)、石田三成は阿弥陀ヶ峰の豊国社(豊国神社)に詣で、太閤秀吉の社前で戦勝祈願を済ませた。前日の三奉行による「内府ちがひの条々」布告に続く動きで、上方の諸勢は大坂城を拠点に軍議を重ね、京・伏見方面への進発を急いでいる。参詣は「豊臣の正統」を掲げる意思表示とも受け止められる。

同日、伏見筋では軍勢の集結が目に見えて進んでいる。宇喜多秀家勢、小早川秀秋勢も移動しており、城下の諸口で鉄砲・槍の応酬が始まった。以後も上方の連合は兵糧・弾薬を運び込み、攻囲の態勢を整える構えだ。

これに対し、伏見城は徳川家康の留守を預かる鳥居元忠が守備を統率。城兵はおおむね千八百前後とされ、数の上では大軍を前に苦しい。元忠は物見と火消し組を厚くして夜襲・放火に備え、矢弾の節約と持ち場交代で消耗を抑える方針という。狭間や櫓の補修も続けられ、婦女子の退去と兵糧の割当てが進められた。守備側の当面の目標は、東国の諸隊が西へ動くまでの“時を稼ぐ”ことにある。

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