【ロンドン 8月20日】
作曲家ヘンデルが英語のオラトリオ「メサイア」の執筆に入った。机上の台本に合わせ、序曲、合唱、アリア、合奏を交互に置き、聖句の言葉を音で照らす設計だ。朝に書き、夜に直す日々が始まり、友人の証言では「食事も忘れて羽根ペンを走らせる」という。通奏低音の和声が作曲室に絶え間なく満ち、机の蝋燭は短くなる。
構想は祝祭と慰めを併せ持ち、群衆の歓呼よりも静かな光で聴衆を包むことを目指す。歌手の声域に合わせた移調と省略、合唱の声部配置の工夫、トランペットの入る高揚点の配置など、実務は同時進行だ。ヘンデルは自作の旋律断片を再編し、劇場の響きに合わせて伴奏を削ったり足したりしている。
近くは慈善演奏会での披露も視野に入る。収益を困窮者の救済に回す構想は、音楽の力を社会へ返す道でもある。楽譜台の脇には祈祷書とペン先、そして乾きかけのインク壺。近しい者は、作曲家が「見た」としか言わぬ眼差しで音符を書き継ぐ姿を見守る。完成の暁には、教会と劇場の双方で鳴り響くであろう。今宵も窓の明かりは遅くまで消えず、通りの馬車の音が遠くに去るたび、次の合唱が生まれてくる。
楽譜の余白には推敲の跡が重なり、旋律の向きを入れ替えた鉛筆の影が残る。弦の分割をどこで行うか、通奏低音の和声を厚くするか薄くするか―決断は速度と閃きに委ねられている。祈りの言葉が音へと変わる瞬間、部屋の空気はひときわ澄むという。静寂ののち、羽根ペンがまた走り出した。
— RekisyNews 文化・音楽面 【1741年】