【吉野 12月18日】
室町時代の長禄元年十二月二日、南朝の正統を自称し存続していた後南朝の行宮が、赤松氏の遺臣らによって急襲される重大事件が発生した。
襲撃により、南朝の皇胤とされる自天王および忠義王の兄弟が討たれ、後南朝は指導的存在を一挙に失った。忠義王は後南朝において征夷大将軍を称していた人物とされ、今回の討伐は単なる局地的衝突ではなく、後南朝政権そのものを標的とした政治的行動と見られている。
さらにこの襲撃では、皇位の正統性を象徴する神璽(三種の神器)が赤松側の手に渡ったと伝えられ、事件の衝撃は一層大きなものとなった。
神璽は南朝・北朝双方にとって王権の根拠そのものであり、その奪取は後南朝の正統性を根底から否定する意味を持っていた。ただし、神璽は直後に吉野の郷民によって奪い返され、完全な回収には至らなかったとされる。
後南朝は南北朝合一後もなお抵抗を続けてきたが、皇胤の討死と神璽を巡るこの事件を境に、組織的な活動は急速に衰退した。今回の急襲は、幕府権力の最終的な安定を図る動きの中で起きたものと考えられ、後世、この一連の出来事は「長禄の変」として記録され、後南朝終焉の象徴的事件と位置づけられている。
— RekisyNews 歴史面 【1457年】