内府勢、進発の歩調を統一 秀忠に上洛命、家康は岡崎―熱田―岐阜へ前進/奉行衆は南宮山に布陣

【信濃・上田/美濃・南宮山/三河・尾張・美濃 10月7日–17日】

七日、奉行衆側の毛利秀元・吉川広家が美濃南宮山に着陣。北国口からの内府衆側面進出を遮断すべく、峠筋と渓口に柵列と鉄砲隊を配して封鎖線を敷いた。翌八日、徳川秀忠が攻囲中の上田城(真田勢)からの転進を命じられ、江戸方より上洛の急使が到来。中山道の諸口を整えたのち、包囲網を切り上げて西進準備に入るよう通達された。前衛のみならず後続の呼吸を合わせる狙いだ。

一方、内府徳川家康は東海道を本隊で進み、十五日に岡崎着、十六日に熱田着、十七日には岐阜へ進出した。道中の書付では、垂井・関ヶ原一帯の戦略要点を再点検し、長良・揖斐の渡しや野営地の割り振り、火薬・鉛玉の前倒し集送を厳命。諸将には「拙速の衝突を避け、到着まで自制せよ」と重ねて指示しつつ、大垣方面では堤と樋門を押さえる水攻めの準備を進めるよう采配を飛ばした。

南宮山の奉行衆布陣は、伊勢・近江口と呼応して内府衆の背面を威圧する楔となる。対して内府衆は、上田から転進する秀忠隊と東海道本隊の合流を目指し、清須―犬山―木曽川線を軸に兵站を強化。三河・尾張・美濃の三州を直線で貫く補給回廊が整い、決戦地の主導権をめぐる綱引きは最終局面へ。秋霖の合間に幟が鳴り、伝令の馬が土橋を駆ける。各軍の足並みが揃うか否かが、次の一撃の重さを決める。

— RekisyNews 国内・戦況面 【1600年】

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